【高麗稲荷神社 御由緒】
神社調に次のような棟札があったことが記録されている。
奉造立稲荷宮護持信心大檀那、
藤原義弘朝臣御武運長久故也。
慶長三年 戊戌十二月二十八日
大願主大行司 樺山美作入道長寿
小行事 竹内備前守
また、その右裏面に
奉勧請稲荷大明神於朝鮮国御戦死藤原義弘朝臣敬白
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島津義弘公が二度目の朝鮮出兵(慶長の役)で泗川に新塞(城)を構えこれを守っていたが慶長三年十月一日「董一元」を大将とする二十万の明軍に攻められた。(島津報告20万人、征韓録38700人、中路軍13500人及び朝鮮軍2300人の編成15800人など諸説あり)を、7000人の寡兵で打ち破り、島津家文書では敵兵38717人を討ち取ったといわれる。島津軍は「鬼石曼子(グイシーマンズ(おにしまづ))」と呼ばれて恐れられ、武名を明にまで轟かせるゆえゆえんとなった)
島津軍は鉄砲隊でこれを防いだが、この時、白赤二匹の狐が火薬を抱いて明軍の中に突入し自爆したといふ。(「三国名勝図解」には一狐は敵の矢に当たって死んだとある)
このために明軍は大いに混乱し島津軍も城門を開いて突入し、遂に明軍を撃退した。
義弘はこの狐の出現を稲荷大神の御加護によるものとして、陣僧頼雄法師修験佐竹光明坊に持ち帰らせ同年十二月十八日帖佐平山城の高尾に祭った。
以後代々の藩主は氏神として深く崇敬し第二十七代斉興は杜司篠原駿河を京都に派遣し、京都神祇官長ト部家に神階を請願したその結果、文政六年二月に正一位高麗稲荷大明神の神号を与えられた。その後、高尾の社地が崩壊のおそれがあるということで文政十年二月現在の地義弘公治所跡に移された。 |
この稲荷神社は、その故事から「高麗稲荷」あるいは「戦死稲荷」とも呼ばれています。元来稲荷神社は農耕神、商業神を主たる神格とするものであるのに対し。当社はその創建時においていささか趣を異にするものであったといえます。今では一般の稲荷神社と同様の信仰対象となっています。
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