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鹿児島市のベッドタウンである隣町にある姶良町に鎮座する「高麗稲荷神社」です。
現在では鹿児島の神社一覧には正式な社名は高麗の字はなく「稲荷神社」とだけとなって
います。帖佐小学校のすぐ近くに位置しており境内に自治会の公民館もあり、地元民の憩
いの場です。このように今ではこのようにのどかな郷社のように思えますがこの神社、島
津家十七代当主「島津義弘(維新)公」と深く関りのある神社なのです。社地自体が義弘
公の帖佐館址であり、社殿背後の山には帖佐平山城が築かれていました。ちょうど、帖佐
平山城に向かう入口にこの神社(館址)があるのです。すべてが当時のままということは
ないと思いますが、この神社の四方は石垣に囲まれ簡単な平城の様相を呈しています。義
弘公の活躍したこの戦国時代の大隅帖佐の軍事拠点であったのです。
このHPでたびたび御紹介させていただいておりますが、薩摩大隅を長く統治した島津
家は「稲荷大神様」をその氏神として敬い奉祀されてきました。有名なのは島津家の祖
「忠久公」の出世時の大阪の住吉稲荷神社での逸話ですが、この「高麗稲荷神社」も島津
家と稲荷大神様との深い御縁を御由緒とする神社であります。
【高麗稲荷神社 御由緒】
神社調に次のような棟札があったことが記録されている。
奉造立稲荷宮護持信心大檀那、
藤原義弘朝臣御武運長久故也。
慶長三年 戊戌十二月二十八日
大願主大行司 樺山美作入道長寿
小行事 竹内備前守
また、その右裏面に
奉勧請稲荷大明神於朝鮮国御戦死藤原義弘朝臣敬白
島津義弘公が二度目の朝鮮出兵(慶長の役)で泗川に新
塞(城)を構えこれを守っていたが慶長三年十月一日「董
一元」を大将とする二十万の明軍に攻められた。(島津報
告20万人、征韓録38700人、中路軍13500人及び朝鮮
軍2300人の編成15800人など諸説あり)を、7000人
の寡兵で打ち破り、島津家文書では敵兵38717人を討ち
取ったといわれる。島津軍は「鬼石曼子(グイシーマンズ
(おにしまづ))」と呼ばれて恐れられ、武名を明にまで
轟かせるゆえゆえんとなった)
島津軍は鉄砲隊でこれを防いだが、この時、白赤二匹の
狐が火薬を抱いて明軍の中に突入し自爆したといふ。
(「三国名勝図解」には一狐は敵の矢に当たって死んだと
ある)
このために明軍は大いに混乱し島津軍も城門を開いて突入
し、遂に明軍を撃退した。
義弘はこの狐の出現を稲荷大神の御加護によるものとし
て、陣僧頼雄法師修験佐竹光明坊に持ち帰らせ同年十二月
十八日帖佐平山城の高尾に祭った。
以後代々の藩主は氏神として深く崇敬し第二十七代斉興
は杜司篠原駿河を京都に派遣し、京都神祇官長ト部家に神
階を請願したその結果、文政六年二月に正一位高麗稲荷大
明神の神号を与えられた。その後、高尾の社地が崩壊のお
それがあるということで文政十年二月現在の地義弘公治所
跡に移された。
この稲荷神社は、その故事から「高麗稲荷」あるいは「戦死稲荷」とも呼ばれていま
す。元来稲荷神社は農耕神、商業神を主たる神格とするものであるのに対し。当社はその
創建時においていささか趣を異にするものであったといえます。今では一般の稲荷神社と
同様の信仰対象となっています。
社域は一段高くなった台地のうえにありその周辺はご覧のとおり城壁のような石垣に囲まれて
います。義弘公の館址です。
ご覧のように境内は地元の方々が掃除をされているようです。整然としています。
境内右手には島津義弘公についての案内版があります。画面クリックで拡大画像
になります。
左は「維新公(義弘公)邸址之碑」です。火山石が幾重にも積まれていま
す。右は拝殿両脇にある石灯籠。丸に十の字の島津の家紋入りです。