全国の稲荷神社の総本社は、京都市伏見区の稲荷山の西麓にある伏見稲荷大社である。元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神であり、現存する旧社家は大西家である。また江戸後期の国学の祖、荷田春丸を輩出した荷田家も社家である。(荷田東丸は,稲荷社祠官,羽倉家の生まれで,僧契沖に始まる近世国学(和学 倭学)を発展させて,「万葉集,古事記,日本書紀」研究の基礎を作った。門下に賀茂真淵がおり,続く本居宣長,平田篤胤と共に,国家の四大人といわれた。)

『山城国風土記』逸文には、伊奈利社(稲荷社)の縁起として次のような話がある。秦氏の祖先である伊呂具の秦公(いろぐのはたのきみ)は、富裕に驕って餅を的にした。するとその餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去った。そこに稲が生ったので(伊弥奈利生ひき)、それが神名となった。伊呂具の秦公はその稲の元へ行き、過去の過ちを悔いて、そこの木を根ごと抜いて屋敷に植え、それを祀ったという。また、稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」の字が宛てられた。

 都が平安京に遷都されると、元々この地を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになった。さらに、東寺建造の際に秦氏が稲荷山から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の守護神とされるようになった。『二十二社本縁』では空海が稲荷神と直接交渉して守護神になってもらったと書かれている。東寺では、真言密教における荼枳尼天(だきにてん、インドの女神ダーキニー)に稲荷神を習合させ、真言宗が全国に布教されるとともに、荼枳尼天の概念も含んだ状態の稲荷信仰が全国に広まることとなった。荼枳尼天は人を食らう夜叉、または、羅刹の一種で、中世には霊孤と同一の存在とみなされた。このことにより祟り神としての側面が強くなったとされる。

稲の神であることから食物神の宇迦之御魂神と同一視され、後に他の食物神も習合した。中世以降、工業・商業が盛んになってくると、稲荷神は農業神から工業神・商業神・屋敷神など福徳開運の万能の神ともされるようになり、農村だけでなく町家や武家にも盛んに勧請されるようになった。

明治の神仏分離の際、多くの稲荷社は宇迦之御魂神などの神話に登場する神を祀る神社になったが、一部は荼枳尼天を本尊とする寺になった。








  



 「稲荷大神様」は江戸後期より、家の守り神として御神璽(おみたま)を請けていただく事、御勧請が流行となりかなりの御分霊が屋敷神として御分霊されました。ですから、これを含めるとお稲荷さんの御祭祀りは公表されている以上に多いと思われます。
 稲荷総本社である伏見稲荷では「小式」〜「本大斎祀式」まで神璽(おみたま)の大きさによって分かれています。はじめは小さい神璽で御勧請されて後に「神璽昇格」ということで大きくされることもあるようです。

 ここで、一般的な家庭祭祀である神棚と稲荷勧請との違いについてご存知ない方は以下をご覧ください。
 




 稲荷勧請  

  古来日本では「稲荷勧請」といわれる、稲荷大神の神侍(おみたま)を勧請(お請け)して守護神とする慣わしが盛んに行われていました。
昔、「建祠の自由」が認められなかった時代でも稲荷勧請のみは公にも許されていました。これが、全国の稲荷神社の多さの理由であります。またこれは江戸時代にはいるとこの慣習は一般の家庭にもおよび家の守り神としてこちらも盛んに勧請されました。
 ちなみに家の内に神棚を設けて祀ることを“たなまつり”といい、邸内に神祠(ほこら)を建てて祀る ことを“ぢまつり”といいます。
 みなさんがよく知っている時代劇などにもよく「棚まつり」がされた居間でのシーンがでてきます。(一見仏壇のような感じのお祀りですが朱の鳥居と眷属の白狐像や提灯が飾られているのがそれです。 落語家の家にもなぜかありますね。TBSのドラマ「タイガーアンドドラゴン」の主人公「小虎」の師 匠宅にもありましたね。このように申し上げるとお分かりになるのではないかと思います。)

  通常はお家の御祀りというと『神棚』一般的であり、こちらのほうが多いでしょう。神棚での御祀りは産土神社や氏神様および崇敬する神社に出向いて「御札」をいただきまして御祀りします。これは勧請とは異なり簡単に言うと、お祀りした崇敬神社への窓口となる御祀りとでもいいましょうか神様と崇敬者との接点となるための御祀りなのであります。
 
 これに対して「勧請」とは神様そのもの(実際はその神社の御眷属とされる)を自宅などに御祀りするわけですから、自宅に御勧請した場合には神社そのものを自宅に奉ったと同じ事なのです。
 御札のお祀りは紙札では一年に一回、木札は二年に一回のお取替えをしないとならないのですが、御勧請した場合にはその御神霊は永遠であり未来永劫その家の守護神となっていただくわけです。
 ですから、御勧請された本人の代だけでなく子々孫々へと御祀りを続けていかなければなりません。
 ある意味でそれなりの覚悟が必要です。御祀りを途中で投げ出してしまう事はあってはなりません。
 
 この大きな違いをご理解いただけましたでしょうか?

 稲荷大神様はこの「御勧請」が多く今でも伏見稲荷大社などで神璽(おみたま)をうけることができます。
 全国各地の大きな稲荷神社では御勧請をお受けする事の出来る神社があります。九州では福岡県久留米市の大学稲荷神社でおうけすることができます。

  「伏見稲荷大社」の場合、神璽(おみたま)は小式以上から本大斎祀式まで9つの段階になっていま
 す。信仰者のなかには、神璽をいろいろなお名前でお呼びしておられますが、等しく、正一位稲荷大神であります。
 つまりは自宅に御勧請させていただいた稲荷大神様に自分でお名前を付けられわけです。
 神様にお名前を付けるなんて恐れ多い感じがしますが、自家の守護神で代々お守りいただくのですから自家に縁のあるお名前を付けさせていただくのもいいのではと思います。

参考:『伏見稲荷大社』神璽勧請




 稲荷勧請について一般的に大きな誤解を招いているのが「稲荷大神様」と「狐」の関係です。その誤解を解消する為に大社含む、各稲荷神社側は説明をしています。以下は伏見稲荷のものです。




 


『伏見稲荷大社HP』より

 おいなりさんというと、だれもが反射的に思い浮かべるのは狐でしょう。我が国の神社では、たとえば伊勢神宮の鶏、春日大社の鹿、日吉大社の猿、八幡宮の鳩というふうに、それぞれ固有の動物が神の使いとして尊ばれています。しかし、お稲荷さんの狐は、単なる神使ではなく、眷属といって神様の一族のような資格を与えられており、そのため狐は稲荷神そのものだという誤解も一部の人にもたれています。

 お稲荷さんと狐がこのような親密な関係をもつに至った由来については、いくつかの説があります。そのなかで一番よく耳にするのが、稲荷の神が「食物の神」つまり御饌神(みけつかみ)なので、その「みけつ」がいつか御狐(おけつね)・三狐(みけつね)に転じたことによるという説でしょう。あるいは、稲荷神がのちに密教の荼枳尼天と本迹関係を結んだことを重視し、荼枳尼天のまたがる狐がそのまま稲荷神の眷属とされたのだという説も一般に流布しています。

それはそれとして、空海の弟子真雅僧正の著といわれている「稲荷流記」に面白い伝説が記されています。

時は平安初期の弘仁年間(810〜24)のこと、平安京の北郊、船岡山の麓に、年老いた狐の夫婦が棲んでいました。全身に銀の針を並べ立てたような白狐だったのです。この狐夫婦は、心根が善良で、常々世のため人のために尽くしたいと願っていました。とはいえ、畜生の身であっては、所詮その願いを果たすことはできない。そこで、狐夫婦はある日意を決し、五匹の子狐をともなって、稲荷山に参拝し、「今日より当社の御眷属となりて神威をかり、この願いを果たさん」と、社前に祈りました。すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神のおごそかな託宣がくだりました。

「そなたたちの願いを聞き許す。されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」こうして、狐夫婦は稲荷山に移り棲み稲荷神の慈悲と付託にこたえるべく日夜精進につとめることになりました。男狐はオススキ・女狐はアコマチという名を明神から授けられたとのことです。(*)

 以上が大社HPからの抜粋でした。 

 稲荷大神様は狐霊ではなく「狐」はあくまで御眷属であるということ。しかもこの御眷属の「狐」は「自然霊」(この世に一度も姿を持ったことのない霊)であるということ。しかも稲荷大神様にお仕えしているわけですから御神獣であり、動物園などで見るそれとは全く別であること。この御神狐をいかにも狐狸妖怪(こりようかい)の類と同一化して悪さをなすようなイメージについては稲荷信仰者としては残念であります。